ゴーリキィ「どん底」の日本初演は、1910年(明治43)12月の自由劇場第三回公演でしたが、
そのときは「夜の宿」という題名で、 演出は小山内薫でした。 
そのときのペーペルは、小山内と一緒に自由劇場をはじめた座頭の二世左団次です。 
自由劇場としては、帝劇での再演と京都南座での公演と、三回上演していますが、
二回目からは左団次はサーチンに替わり、 ペーペルは二回目は猿之助(後の猿翁)、
三回目は荒次郎に替わっています。この劇は、誰もが主人公といえる群衆劇ですが、
左団次は、二回目からサーチンに重きをおいたといえそうです。
 1922年2月の研究座試演のときに、初めて「どん底」という題名を使っていますが、その時限りで、
その後築地小劇場で何回か 上演されていますが、ずっと「夜の宿」の題名で親しまれてきました。
 築地小劇場が、小山内薫・土方興志らによって創立されたのは、1924年(大正13)6月ですが、
その年10月の第13回公演に 「夜の宿」が上演され、若き日の千田是也は、ペーペルを演じています。 
翌秋の再演にも同じ役を演じているのは、そのガラにぴったりだったのでしょう。
(千田是也著「もうひとつの新劇史」のなかに、やや不鮮明ながら、そのときの舞台写真が載っています。)
 1926年1月の、千田是也築地退団後は、蒲田研二の持ち役になりました。 
演出は、さきの研究座試演のときを除いて、 小山内死後の追悼公演(1929年3月。 
この公演直後に築地小劇場は分裂)まで、すべて小山内演出が踏襲されています。
 1936年9月に、新協劇団が「ゴーリキイ追悼」と銘打って、村山知義の「新演出」で上演した時に、
あらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。 
但し、翻訳は、そのときも、それから後も小山内訳が使われていました。
 戦後には、1946年9月に新協劇団と東京芸術劇場合同で、劇場は帝劇でしたが、戦後まもなくの頃とて、
観客の感覚も「どん底」の舞台上の人物と大差ないような、不思議な共感をかもし出していたようです。
 1954年(昭和29)3月に、文学座がはじめて岸田国士演出の、神西清訳による「どん底」を、
一ツ橋講堂で上演しました。 
岸田演出は、従来のモスクワ芸術座以来のものとは違った「明るい”どん底”」を上演する意気込みだったが、
初日を前にした舞台稽古中に倒れて、逝くなりました。  
その出来事のあった後で、舞台から「明るさ」を感じ取るというのは、無理のようでした。
 その岸田国士は、1924年の前述の築地小劇場初演の「夜の宿」を観て、
「これは佳いと思った。本物だと思った。」と 都新聞(現在の東京新聞)の劇評を書いていました。 
「第一に脚本が佳い。第二に演出者の理解が行き届いている。
第三に翻訳が立派だ。第四に俳優が真面目だ。」 当事の岸田国士はフランスから帰国して間もなくの頃で、
築地小劇場の運動には、 いくらか批判的な態度をとっていたのですが・・・。
 その後、1958年暮れには、本場のモスクワ芸術座の最初の来日公演があり、その演目の中に、
「どん底」もあっていろいろな刺激を受けました。
 そのほか、新演(下村正夫演出・松本忠司翻訳)、民芸(村山知義演出・小山内訳。宇野重吉・ペーペル)、
芸術劇場(小林和樹訳・演出)、東演(八田元夫演出・坂本英介訳)など、
さまざまな「どん底」上演がありました。 
大学生の劇団などでも、「どん底」を取り上げて大当たりをした、という話もあります。
さらに「どん底」は1957年公開の日本映画。
マクシム・ゴーリキーの戯曲を日本の江戸時代に置き換えた黒澤明監督作品がある。
ゴーリキーの戯曲は他にもあるが、日本においては「どん底」のみが有名。
明治時代から現在まで何度も舞台化・映画化されていて、黒澤明が監督した同名の映画は世界的にも有名。
日本以外でもたびたび映画化されています。
 
(C)2008 TOEN All rights reserved.
TOPへ戻る 劇団東演へのお問い合わせ