ベリャコーヴィッチ挨拶

 親愛なる日本の皆さん、ゴーリキーの「どん底」は典型的なロシア人を描いた戯曲であるにもかかわらず、
何故いまだに世界中で上演されているのでしょうか? 
この作品では所謂『のけ者』の問題と『よりよい人間』の問題が提起されています。
「どん底」が繰り返し上演されている背景として、それらの問題が現代においてますます切実さを帯びてきていることを
挙げないわけにはいきません。
 今回この戯曲の演出に招いていただいたことを感謝するとともに、ロシアの演出家と日本の俳優たちという組み合わせが
意義のある試みとして、観客の方々に評価していただければと願っております。
また前作「ロミオとジュリエット」がそうであったように、この「どん底」も将来モスクワやサンクト・ペテルブルグで上演され、
話題を集めるものになって欲しいと願っています。


                        1998.12.14 ワレーリィ・ベリャコーヴィッチ   

 
 
ベリャコーヴィッチという男
 
                    コーディネーター・翻訳・通訳  佐藤四郎

 劇団ユーゴザパトの制作部長フトポストフは、かつてロシア演劇界の巨匠、 エーフロス(劇団東演で「桜の園」
「ナターシャ」を演出)に 仕え、エーフロスの死後、ベリャコーヴィッチに仕えるようになった男だが、
その彼が依然私にこう語ったことがある。
「この二人は個性も手法も全く異なるが、共通するのは二人とも際立って孤独だということだ。」
−−実をいえば、当時私はいつも陽気なベリャコーヴィッチに孤独を感じたことは無かったのでこの言葉は少々意外だった。
そのうちそのことは忘れてしまっていた。ところが先日私は思いがけずこの言葉を思い出したのである。
 その日私は彼と鎌倉を散策し、その後由比ヶ浜に降りた。我々は浜辺に腰を下ろし、海を眺めながら公演で
訪れた様々な海辺の街の話をしていた。そこへ足元のおぼつかない犬を連れた中年の男が歩いてきた。
ベリャコーヴィッチは、「あの犬は近い将来の自分だ。」と冗談めかして言い、じっとその姿に見入った。
男は我々の近くで柔軟体操を始め、犬はその後にじっと控えて主人の後姿を見守っていた。
やがて男は体操を終えると、振り返ってその犬の前に屈み込み、まず前足から丁寧にマッサージしていった。
最後に後ろ足を揉んでもらうと、犬は俄に精気を帯びて男の周りを駆け回り、それに促されるように男も駆け出した。
秋の海を背景に夕日を浴びてゆっくり走る男と、その後から懸命についていく犬を目で追いながら、
ベリャコーヴィッチは顔に深い満足感を湛えて「ああ、なんていい光景だ。 わずかなしぐさに彼らの普段の関係が
全て現れていたじゃないか。 今日はここへ来て本当によかった」
−−こうした些細なことを心から愉しめる人間と一緒に過ごす時間のなんと豊なことだろう! 
それと同時に私はそこに彼の静に澄んだ孤独を感じた。この人の孤独はこんな現れ方をするのだ。 
 そうしている間にも海は四方から重層的に波音を奏で、我々はその波音に浸った。
私はふと彼と東演の「ロミオとジュリエット」が 日本各地で公演していく中で、この海の響きのように重層的な
舞台になっていったことを思い起こした。  モスクワの彼の劇場の狭い舞台では実現しなかったことだ。
それが大きな舞台と充実した証明設備を得たことで思いがけない程、
重層的な芝居になっていったのである。そうした可能性を開いてくれた市民劇場の方々には深く感謝している。
幸福な出会いだった。  さて、この「ロミオとジュリエット」の成功があって今回の「どん底」につながったのだが、
稽古を開始して一ヶ月が過ぎた今も、 さながら悪鬼のような形相でダメ出しをする日々が続いている。 
しかしこれを過ぎれば、あの秋の日にこの類稀な演出家が
海辺で見せた穏やかな横顔が見られるのだ。その日が必ず来ることを私は確信している。

 
  絶えない創造の魂・ベリャコーヴィッチ!
    
        宇都宮吉輝氏(名古屋演劇鑑賞会・会長)
 
 東演がワレーリィ・ベリャコーヴィッチの演出で「どん底」を再演することになりました。
 私たちは東演とユーゴザーパト劇場の合作「ロミオとジュリエット」を1995年に例会として取り上げています。
そのシンプルな舞台装置と衣裳、死神のような仮面の踊り子が舞台をリードし、
使者を立たせたままその思いを語らせるなどユニークな着想で見る者の想像力を書き立て、
音楽と光を駆使して甘い恋物語から一気に悲劇へと突き進む
新しいシェイクスピアを見せてくれました。そして、二人の若者の死を通して「いさかい」の虚しさと平和の大切さを願う
熱いメッセージは多くの会員の共感を呼び大好評でした。
 そこで三年前に、東演がベリャコーヴィッチ演出で「どん底」を上演すると聞いた時、
私はどんな新しい「どん底」が登場するか 大きな期待をもっていましたが、
その舞台は想像していた以上に新鮮で衝撃的なものでした。
幕が開くと、パイプで組まれた二段ベッド八脚四列が斜めに張り出している空間があるだけ。
私たちが従来の「どん底」で見られた「ほら穴のような地下室」はありませんでした。 
そのベッドを潜りぬける俳優たちの様々な動きが、 舞台を進行させ、時にはそれが舞台装置そのものにも
なっていくようにも思われるなど私たちの想像力を触発する刺激的なものでした。
そこには、かつてのロシアの「どん底」の世界は無く、
現代のコミュニケーションの断ち切られた「どん底」の世界がありました。
そして登場人物にスポットをあて、それぞれの思いを独白のように語らせることで、一筋縄ではいかない今日の個と
集団の関係が、 「人間を取り戻したい」という切実な思いとそのことができない苛立ちが、
私にはより強く伝わってきました。
 ベリャコーヴィッチは、従来のスタニスラフスキーの演出を根底から解体し、全く新しい「どん底」を見せてくれたのです。
あの「どん底の歌」に変わって、独特の民族音楽に合わせて男達が床を踏み鳴らして踊るシーンなど、
強力なリズムのある音楽と俳優たちの躍動は、その真骨頂といえるでしょう。
絶えず新たな創造を目差しているベリャコーヴィッチが、
今回の再演ではどんな「どん底」を見せてくれるか大いに期待し、楽しみにしています。

 
 
人間賛歌のアンサンブル
−−東演「どん底」再演に寄せて

鈴木太郎(演劇ジャーナリスト/詩人)

 その舞台をみた時、体の中から熱い思いがほとばしり、感動というより、衝撃をうけたというほうが正確だったと言えます。
心は、激しくゆさぶられ、興奮のるつぼと化していました。それは、ダイナミックな動きとともに、
人間賛歌のアンサンブルをつくりあげたことへの共感だったのです。
 ゴーリキーの「どん底」は、いうまでもなく今から百年前の帝政ロシアの時代に書かれた作品であり、
モスクワ芸術座が上演し、 その舞台はリアリズム演劇の極致ともいわれてきました。
日本でも多くの劇団で上演され、おなじみの作品となっています。
人間いかに生きるか、真実とはなにか、という根源的なテーマが魅力になっています。
 ところが、1998年12月に上演された東演の「どん底」は、これまでのイメージを
払拭する鮮やかな展開をみせてくれたのです。
モスクワのユーゴザパト劇場の演出家であるワレーリィ・ベリャーコヴィッチを演出に迎えたことによって
つくりあげることができたのです。
 舞台空間は高さのある大きな二段ベッド四体を斜めに配置しただけです。薄汚れた木賃宿の洞窟のような
「どん底」のもつイメージでは 想像をもつかないセットです。 舞台衣装も白一色です。 せりふは舞台の前面に出てきて、
明かりのなかで客席にむかっていいますが、 それは相手にかぶせるのでなく、独白に近い形ですすめられていきます。
また、そのせりふの意味や感情の起伏によって、 後方の群衆たちの動きに変化をもたせています。
ベッドの上の回転をみても、足を大きく開いたり、背中を丸めるようにしたり工夫をこらされています。 
こうした動きの緩急のなせる技術、俳優たちの寸分たがわぬ動きがつくりだす緊張感が舞台を熱くしているのだと感じます。
 巡礼のルカ老人、博打打のサーチン、泥棒のペーペル、木賃宿の娘ナターシャなど登場人物それぞれに魅力があります。
その人間的な魅力を、東演の俳優達の演技によって存分に引き出していました。そのことが、暗くなりがちなこの舞台を、
未来への希求をメッセージとして謳いあげていたのです。
 それにしても『諸人よ! もしこの世が、貴き真実への道見出さずば、うつけ者、人類に幸福の夢語り、
わが世を謳歌せん』と 「役者」の詩の朗読ではじめる幕開けから意表をついたものです。
また、ルカの登場にしても群集の踊りの中からというように、 これまでの概念を打ち破ってくれるのです。
そこに、現代に生きるものへの「どん底」のもつ人間ドラマの本質が提示されているのだと思いました。

   
 
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