はじめに
劇団東演と「どん底」
1966年初演以来、全国を巡演し、節目節目に上演してきました。
演出も八田元夫から千田是也、そしてV.ベリャコーヴィッチへ。
時代に合わせた「どん底」を各年代で創り、その評価は東演の「どん底」か「どん底」の東演か、と評されました。
劇団東演財産演目「どん底」が2009年、劇団創立50周年に21世紀の「どん底」として蘇ります。
STORY
地下の安宿では、今日も朝からたわいないことで喧嘩が始まる・・・・・。
饅頭売りのクワシニャーは、病身の妻・アンナを顧みない錠前屋のクレーシチを責め、
男爵と呼ばれる男の夢は「悲恋物語」に浸るナースチャーに茶々を入れる。
宿の主人コストイリョフが女房のワシリーサの行方を訪ねに降りてくれば、こそ泥のペーペルと衝突する。
イカサマ賭博師のサーチンは言う「どうしてあの野郎をバラしちまわねんだ?」
アルコール中毒の役者や帽子屋のブブノフ、荷揚げ人足や娼婦など行き場の無い人間達がふきだまるそんな宿に、
巡礼のルカがワシリーサの妹・ナターシャに案内されて来る。
彼女の叔父で巡査のメドヴェージェフの誰何にもまるで動じないルカ。
「どんなに気取ったところで、人間は人間として生まれ、人間として死んで行くんだ」
「わしらはみんな、この地上では巡礼さ。わしらの地球だって空を巡る巡礼というじゃないか」
----啓示めいた一言ひとことが、やがて波紋のように宿の住人の心に広がっていく・・・。
役者は療養所行きを決め、アンナは天に召され、ナターシャはペーペルからの求婚を受け入れる。
ところが----。
どん底の歴史
ゴーリキィ「どん底」の日本初演は、1910年(明治43)12月の自由劇場第三回公演でしたが、そのときは「夜の宿」という題名で、 演出は小山内薫でした。そのときのペーペルは、小山内と一緒に自由劇場をはじめた座頭の二世左団次です。自由劇場としては、帝劇での再演と京都南座での公演と、三回上演していますが、二回目からは左団次はサーチンに替わり、 ペーペルは二回目は猿之助(後の猿翁)、三回目は荒次郎に替わっています。この劇は、誰もが主人公といえる群衆劇ですが、左団次は、二回目からサーチンに重きをおいたといえそうです。
1922年2月の研究座試演のときに、初めて「どん底」という題名を使っていますが、その時限りで、その後築地小劇場で何回か 上演されていますが、ずっと「夜の宿」の題名で親しまれてきました。
築地小劇場が、小山内薫・土方興志らによって創立されたのは、1924年(大正13)6月ですが、その年10月の第13回公演に 「夜の宿」が上演され、若き日の千田是也は、ペーペルを演じています。 翌秋の再演にも同じ役を演じているのは、そのガラにぴったりだったのでしょう。(千田是也著「もうひとつの新劇史」のなかに、やや不鮮明ながら、そのときの舞台写真が載っています。)
1926年1月の、千田是也築地退団後は、蒲田研二の持ち役になりました。演出は、さきの研究座試演のときを除いて、 小山内死後の追悼公演(1929年3月。この公演直後に築地小劇場は分裂)まで、すべて小山内演出が踏襲されています。
1936年9月に、新協劇団が「ゴーリキイ追悼」と銘打って、村山知義の「新演出」で上演した時に、あらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。但し、翻訳は、そのときも、それから後も小山内訳が使われていました。
戦後には、1946年9月に新協劇団と東京芸術劇場合同で、劇場は帝劇でしたが、戦後まもなくの頃とて、観客の感覚も「どん底」の舞台上の人物と大差ないような、不思議な共感をかもし出していたようです。1954年(昭和29)3月に、文学座がはじめて岸田国士演出の、神西清訳による「どん底」を、一ツ橋講堂で上演しました。 岸田演出は、従来のモスクワ芸術座以来のものとは違った「明るい”どん底”」を上演する意気込みだったが、初日を前にした舞台稽古中に倒れて、逝くなりました。その出来事のあった後で、舞台から「明るさ」を感じ取るというのは、無理のようでした。
その岸田国士は、1924年の前述の築地小劇場初演の「夜の宿」を観て、「これは佳いと思った。本物だと思った。」と 都新聞(現在の東京新聞)の劇評を書いていました。「第一に脚本が佳い。第二に演出者の理解が行き届いている。第三に翻訳が立派だ。第四に俳優が真面目だ。」当事の岸田国士はフランスから帰国して間もなくの頃で、築地小劇場の運動には、 いくらか批判的な態度をとっていたのですが・・・。
その後、1958年暮れには、本場のモスクワ芸術座の最初の来日公演があり、その演目の中に、「どん底」もあっていろいろな刺激を受けました。
そのほか、新演(下村正夫演出・松本忠司翻訳)、民芸(村山知義演出・小山内訳。宇野重吉・ペーペル)、芸術劇場(小林和樹訳・演出)、東演(八田元夫演出・坂本英介訳)など、さまざまな「どん底」上演がありました。大学生の劇団などでも、「どん底」を取り上げて大当たりをした、という話もあります。さらに「どん底」は1957年公開の日本映画。マクシム・ゴーリキーの戯曲を日本の江戸時代に置き換えた黒澤明監督作品がある。ゴーリキーの戯曲は他にもあるが、日本においては「どん底」のみが有名。明治時代から現在まで何度も舞台化・映画化されていて、黒澤明が監督した同名の映画は世界的にも有名。日本以外でもたびたび映画化されています。どん底と東演の歴史
東演での初演は第12回公演-ゴーリキイ没後30年。1966年 4月22日~26日日経ホール。5月10日~14日砂防ホールとなっている。いくつかの役がダブル・トリプルに組まれ住人も多数登場し、まさに総力をあげての公演であった。翌1967年に再演し全国労演、鑑賞会の例会に入って各地を巡演した。以後、再演を繰り返し高校生のための公演も含めステージ数は200を越え東演のドル箱になった。
千田是也氏が、東演の「どん底」を最初に演出したのは、1980年3月の、砂防会館だった。その後1983年に敢えて東演パラータを会場に選んで上演。地下室でこそないが、あの閉じ込められたような舞台空間は、「どん底」の世界をつくりあげるのに最適な場であることを、そこで証明して見せてくれたのだ。
さまざまな演出家が「どん底」に取り組んできた。しかしその舞台に実際に出演した経験のある俳優が演出に当たるのは、 日本の場合にはおそらく千田是也氏だけであろう。1904年生まれの千田是也氏が、少しも衰えを見せないその演出力で、若い俳優たちを相手に、ちっとも古びない「どん底」をつくりあげるだろうと期待され、劇団東演は、1989年「創立30周年記念」に、またとない贈り物を観客に用意したこととなった。
そして1998年「創立40周年記念」にロシアの鬼才演出家V.ベリャコーヴィッチ氏を向かえ、21世紀の「どん底」を創り上げ、これまでのイメージを払拭する鮮やかな展開をみせる。舞台空間は高さのある大きな二段ベッド四体を斜めに配置しただけで、薄汚れた木賃宿の洞窟のような 「どん底」のもつイメージでは 想像をもつかないセット。舞台衣装も白一色で、せりふは舞台の前面に出てきて、明かりのなかで客席にむかっていうが、それは相手にかぶせるのでなく、独白に近い形ですすめられていく。また、そのせりふの意味や感情の起伏によって、 後方の群衆たちの動きに変化をもたせて、ベッドの上の回転をみても、足を大きく開いたり、背中を丸めるようにしたり工夫をこらしている。こうした動きの緩急のなせる技術、俳優たちの寸分たがわぬ動きがつくりだす緊張感が舞台を熱くし、さらに音楽を効果的に取り入れ、照明は俳優や舞台装置をより浮かび上がらせ、 絶賛された。
2001年に早くも再演し、2004年にはモスクワのユーゴザパト劇場との合同公演で、モスクワ、サンクトペテルブルグ、ニジニノブゴルド(ゴーリキーの故郷・旧ゴーリキー市)三都市を巡演し大成功を収めた。
2009年「創立50周年記念」でこの21世紀の衝撃の「どん底」が蘇る!
過去の東演「どん底」上演記録
公演No | 演出 | 場所 | 年月 |
---|---|---|---|
海外 | ベリャコーヴィッチ | ロシア(モスクワ・サンクトペテルブルグ・ニジニノブゴルド) | 2004.03 |
115 | ベリャコーヴィッチ | 世田谷パブリックシアター | 2001.03 |
109 | ベリャコーヴィッチ | 朝日生命ホール | 1998.12 |
88 | 千田 是也 | グローブ座 | 1992.02 |
79 | 千田 是也 | 東演パラータ | 1989.09 |
54 | 千田 是也 | 東演パラータ | 1983.03 |
43 | 千田 是也 | 砂防会館ホール | 1980.03 |
37 | 八田 元夫 | 砂防会館ホール | 1977.10 |
33 | 八田 元夫 | 日本青年会館 | 1975.10 |
28 | 八田 元夫 | 砂防会館ホール | 1973.12 |
22 | 八田 元夫 | 砂防会館ホール | 1969.10 |
地方 | 八田 元夫 | 地方公演 | 1969 |
17 | 八田 元夫 | 日経ホール | 1968.01 |
地方 | 八田 元夫 | 地方公演 | 1968 |
16 | 八田 元夫 | 砂防会館ホール | 2004.03 |
14 | 八田 元夫 | 砂防会館ホール | 1967.02 |
地方 | 八田 元夫 | 地方公演 | 1967 |
12 | 八田 元夫 | 日経ホール | 1966.04 |
ベリャコーヴィッチのどん底
挨拶
親愛なる日本の皆さん、ゴーリキーの「どん底」は典型的なロシア人を描いた戯曲であるにもかかわらず、 何故いまだに世界中で上演されているのでしょうか?この作品では所謂『のけ者』の問題と『よりよい人間』の問題が提起されています。「どん底」が繰り返し上演されている背景として、それらの問題が現代においてますます切実さを帯びてきていることを挙げないわけにはいきません。今回この戯曲の演出に招いていただいたことを感謝するとともに、ロシアの演出家と日本の俳優たちという組み合わせが意義のある試みとして、観客の方々に評価していただければと願っております。また前作「ロミオとジュリエット」がそうであったように、この「どん底」も将来モスクワやサンクト・ペテルブルグで上演され、話題を集めるものになって欲しいと願っています。
1998.12.14 ワレーリィ・ベリャコーヴィッチベリャコーヴィッチという男
劇団ユーゴザパトの制作部長フトポストフは、かつてロシア演劇界の巨匠、エーフロス(劇団東演で「桜の園」 「ナターシャ」を演出)に 仕え、エーフロスの死後、ベリャコーヴィッチに仕えるようになった男だが、 その彼が依然私にこう語ったことがある。「この二人は個性も手法も全く異なるが、共通するのは二人とも際立って孤独だということだ。」--実をいえば、当時私はいつも陽気なベリャコーヴィッチに孤独を感じたことは無かったので この言葉は少々意外だった。そのうちそのことは忘れてしまっていた。ところが先日私は思いがけずこの言葉を思い出したのである。
その日私は彼と鎌倉を散策し、その後由比ヶ浜に降りた。我々は浜辺に腰を下ろし、海を眺めながら公演で 訪れた様々な海辺の街の話をしていた。そこへ足元のおぼつかない犬を連れた中年の男が歩いてきた。ベリャコーヴィッチは、「あの犬は近い将来の自分だ。」と冗談めかして言い、じっとその姿に見入った。 男は我々の近くで柔軟体操を始め、犬はその後にじっと控えて主人の後姿を見守っていた。やがて男は体操を終えると、振り返ってその犬の前に屈み込み、まず前足から丁寧にマッサージしていった。 最後に後ろ足を揉んでもらうと、犬は俄に精気を帯びて男の周りを駆け回り、それに促されるように男も駆け出した。秋の海を背景に夕日を浴びてゆっくり走る男と、その後から懸命についていく犬を目で追いながら、ベリャコーヴィッチは顔に深い満足感を湛えて 「ああ、なんていい光景だ。わずかなしぐさに彼らの普段の関係が全て現れていたじゃないか。今日はここへ来て本当によかった」--こうした些細なことを心から愉しめる人間と一緒に過ごす時間のなんと豊なことだろう!それと同時に私はそこに彼の静に澄んだ孤独を感じた。この人の孤独はこんな現れ方をするのだ。
そうしている間にも海は四方から重層的に波音を奏で、我々はその波音に浸った。私はふと彼と東演の「ロミオとジュリエット」が 日本各地で公演していく中で、この海の響きのように重層的な舞台になっていったことを思い起こした。モスクワの彼の劇場の狭い舞台では実現しなかったことだ。それが大きな舞台と充実した証明設備を得たことで思いがけない程、重層的な芝居になっていったのである。そうした可能性を開いてくれた市民劇場の方々には 深く感謝している。 幸福な出会いだった。さて、この「ロミオとジュリエット」の成功があって今回の「どん底」につながったのだが、稽古を開始して一ヶ月が過ぎた今も、 さながら悪鬼のような形相でダメ出しをする日々が続いている。しかしこれを過ぎれば、あの秋の日にこの類稀な演出家が海辺で見せた穏やかな横顔が見られるのだ。その日が必ず来ることを私は確信している。
絶えない創造の魂・ベリャコーヴィッチ!
東演がワレーリィ・ベリャコーヴィッチの演出で「どん底」を再演することになりました。
私たちは東演とユーゴザーパト劇場の合作「ロミオとジュリエット」を1995年に例会として取り上げています。 そのシンプルな舞台装置と衣裳、死神のような仮面の踊り子が舞台をリードし、 使者を立たせたままその思いを語らせるなどユニークな着想で見る者の想像力を書き立て、音楽と光を駆使して甘い恋物語から一気に悲劇へと突き進む新しいシェイクスピアを見せてくれました。そして、二人の若者の死を通して「いさかい」の虚しさと平和の大切さを願う 熱いメッセージは多くの会員の共感を呼び大好評でした。
そこで三年前に、東演がベリャコーヴィッチ演出で「どん底」を上演すると聞いた時、私はどんな新しい「どん底」が登場するか 大きな期待をもっていましたが、その舞台は想像していた以上に新鮮で衝撃的なものでした。幕が開くと、パイプで組まれた二段ベッド八脚四列が斜めに張り出している空間があるだけ。私たちが従来の「どん底」で見られた「ほら穴のような地下室」はありませんでした。そのベッドを潜りぬける俳優たちの様々な動きが、 舞台を進行させ、時にはそれが舞台装置そのものにも なっていくようにも思われるなど私たちの想像力を触発する刺激的なものでした。そこには、かつてのロシアの「どん底」の世界は無く、現代のコミュニケーションの断ち切られた「どん底」の世界がありました。そして登場人物にスポットをあて、それぞれの思いを独白のように語らせることで、一筋縄ではいかない今日の個と 集団の関係が、「人間を取り戻したい」という切実な思いとそのことができない苛立ちが、 私にはより強く伝わってきました。
ベリャコーヴィッチは、従来のスタニスラフスキーの演出を根底から解体し、全く新しい「どん底」を見せてくれたのです。あの「どん底の歌」に変わって、独特の民族音楽に合わせて男達が床を踏み鳴らして踊るシーンなど、 強力なリズムのある音楽と俳優たちの躍動は、その真骨頂といえるでしょう。 絶えず新たな創造を目差しているベリャコーヴィッチが、今回の再演ではどんな「どん底」を見せてくれるか大いに期待し、楽しみにしています。
人間賛歌のアンサンブル-東演「どん底」再演に寄せて
その舞台をみた時、体の中から熱い思いがほとばしり、感動というより、衝撃をうけたというほうが正確だったと言えます。心は、激しくゆさぶられ、興奮のるつぼと化していました。それは、ダイナミックな動きとともに、人間賛歌のアンサンブルをつくりあげたことへの共感だったのです。
ゴーリキーの「どん底」は、いうまでもなく今から百年前の帝政ロシアの時代に書かれた作品であり、 モスクワ芸術座が上演し、 その舞台はリアリズム演劇の極致ともいわれてきました。日本でも多くの劇団で上演され、おなじみの作品となっています。人間いかに生きるか、真実とはなにか、という根源的なテーマが魅力になっています。ところが、1998年12月に上演された東演の「どん底」は、これまでのイメージを払拭する鮮やかな展開をみせてくれたのです。モスクワのユーゴザパト劇場の 演出家であるワレーリィ・ベリャーコヴィッチを演出に迎えたことによってつくりあげることができたのです。舞台空間は高さのある大きな二段ベッド四体を斜めに配置しただけです。薄汚れた木賃宿の洞窟のような 「どん底」のもつイメージでは 想像をもつかないセットです。舞台衣装も白一色です。せりふは舞台の前面に出てきて、明かりのなかで客席にむかっていいますが、 それは相手にかぶせるのでなく、独白に近い形ですすめられていきます。また、そのせりふの意味や感情の起伏によって、後方の群衆たちの動きに変化をもたせています。ベッドの上の回転をみても、足を大きく開いたり、背中を丸めるようにしたり工夫をこらされています。こうした動きの緩急のなせる技術、俳優たちの寸分たがわぬ動きがつくりだす緊張感が舞台を熱くしているのだと感じます。巡礼のルカ老人、博打打のサーチン、泥棒のペーペル、木賃宿の娘ナターシャなど登場人物それぞれに魅力があります。その人間的な魅力を、東演の俳優達の演技によって存分に引き出していました。そのことが、暗くなりがちなこの舞台を、未来への希求をメッセージとして謳いあげていたのです。それにしても『諸人よ!もしこの世が、貴き真実への道見出さずば、うつけ者、人類に幸福の夢語り、 わが世を謳歌せん』と 「役者」の詩の朗読ではじめる幕開けから意表をついたものです。また、ルカの登場にしても群集の踊りの中からというように、これまでの概念を打ち破ってくれるのです。そこに、現代に生きるものへの「どん底」のもつ人間ドラマの本質が提示されているのだと思いました。
ロシアにおける日本文化フェスティバル2003参加劇団東演×ユーゴザパト劇場『どん底』2004年冬ロシアツアー
3月15日(月):ニジニ・ノブゴロド◇コメディードラマ劇場
3月20日(土)〜22日(月):モスクワ◇ユーゴザパト劇場
3月25日(木):サンクト・ペテルブルグ◇コンサートホール
CAST
演出家:ワレリー・ベリャコーヴィチ
笹山 栄一男爵
山中康司クレーシチ
辰巳 次郎ゾープ
豊泉 由樹緒ブブノフ
能登 剛住人
南保 大樹タタール人
星野 真広アリョーシカ
森下 了太住人
腰越 夏水ワシリーサ
光藤 妙子住人
岸並 万里子住人
小池友理香住人
安田 扶二子ナターシャ
古田 美奈子住人
江上 梨乃住人
クトル・アビーロフ役者
ワレリー・アファナーシェフサーチン
ウラジーミル・コパロフメドヴェージェフ
アレクサンドル・ナウモフペーペル
ミハイル・ドーキン住人
アレクサンドル・ザドーヒン住人
イリーナ・ボチョリシビリアンナ
イリーナ・スーシナクワシニャー
近石 真介(客員)ルカ
側見 民雄(客演)コストゥイリョフ
鶉野 樹里(客演)ナースチャ
横川 則一制作
佐藤 史郎コーディネータ
アナトーリー・ロプホフ
ビャチェスラフ・クリモフ
アリーナ・マースロバ